今回は、インターネット上の匿名掲示板やSNSで時折見られる、「小並感」という言葉に関して解説していきたいと思います。
現在では様々なスラングをネット上で見かけたり、あるいはそれを現実の生活の中で耳にすることもあります。
元々スラングはある特定の人々の間だけで使う「俗語」です。
ですから、全く知らない人、そういったコミュニティーと関係のない人にからすれば、「これは一体どういう意味だろう?」と思えてしまうのは当然のことでしょう。
今回は、「小並感」という言葉を解説しながら、ネットスラングという独自の言葉に関しても触れていきたいと思います。
- 「小並感」の意味とは?
- 「小並感」の類語
- 「小並感」の使い方
- 「小並感」がうざいと思う心理
- まとめ
1. 「小並感」の意味とは?
もともとこの「小並感」という言葉は、「小学生並みの感想」という文章を省略したものです。
ネット上で目にしたもの、紹介されていたものに対して、自分なりの感想を述べたいという思いも、皆さんの中にあるかもしれません。
その際、上手に感想を書くのが難しい、シンプルな感想しか浮かばない、そういったケースは非常に多いと思います。
そのような感想をネット上などで書く際に、「何だか文章力の拙い小学生が述べた感想のような簡潔さである」という、自分の発言に対する自虐的な意味合いを込めて、文末に「(小並感)」というキャプションを入れるという形で、このことばが使われることがあります。
転じて「小学生の感想並み」に拙い、言葉足らず、語彙力がないといった、否定的な意味合いとして使われることも多いようですが、こちらも概ね、自分に対して用いることが中心となっています。
また、段々とこの言葉が定着していく中で、「(小並感)」という言葉をつけておけば、多少安っぽい感想であったり、短い2〜3つの文節で構成されたような雑とも思える文章であっても、ある程度は許容してもらえる、という共通認識ネット上ではできあがっているようです。
尚、当然のことではありますが、他人の発言に対して、「小並感かよ」などという言い方をするのは、相手に対して不快感を抱かせるものです。
ネットスラングは非常に限定的な意味合いで使われることが多いもの。
用法を間違わないように、是非気をつけて頂きたいと思います。
- 「小並感」の読み方
1-1. 「小並感」の読み方
ネットスラングは、文字媒体であるインターネットを中心に広まった言葉であるため、実際に正しい読み方というのが規定されていることはあまりありませんが、「一般的にこう発音される」という慣例のようなものは存在します。
この「小並感」に関しては、「こ・なみ・かん」と発音するのが正しいとされています。
前述したとおり、元々は「小学生並みの感想」という言葉が由来ですから、「しょう・なみ・かん」と発音するのが本来は正しいのかもしれず、事実、これが間違いとして規定されている訳でもありません。
とはいえ、実際に声に出して発音してみると、「こ・なみ・かん」と「しょう・なみ・かん」では、圧倒的に前者の方が発音しやすい、というのは事実です。
言葉が定着するには、使い手が使いやすい、解りやすいことが重要となります。
その結果として、「こ・なみ・かん」という読みが現在では定着したのでしょう。
2. 「小並感」の類語
ネットスラングは独自の文化を背景に発展した、非常に特殊な言葉です。
限定的な意味合いを持ち、それに匹敵するだけの相応しい言葉がみつからず、それがゆえに広く定着していったという背景があるため、他のネットスラングの中から同様の意味を持つ言葉を見出すのは、なかなか難しいことです。
ですから、ここでは「小並感」という言葉と似たネットスラングではなく、一般的に使われている言葉の中から、意味が近しい単語を提示していきたいと思います。
これらの単語を通して、この言葉が内包している意味について理解を深めて頂ければと思います。
- 「稚拙」
- 「凡庸さ」
2-1. 「稚拙」
経験が足りないために表現として未熟で、未完成な点が目につくことを指します。
とはいえ、実際に「小並感」という言葉を使用する人達は、インターネット上に文章・発言を提示するという行為を日常的に行っているのですから、きちんと考え、推敲し、完成形に近い文章を書くことができる、という方も多いでしょう。
ですが、本人もそれを解った上で、わざと乱雑に見える文章で書いてみたり、きちんと書いたものの、自信の無さから謙遜を交えてみるなど、様々な表現の形として、「小並感」という言葉を使用しているケースがあります。
これはそういうひとつの言語表現の形なのだなと考えれば、「なるほど、そういうものか」とも思えてくるのではないでしょうか。
2-2. 「凡庸さ」
特別にすぐれた能力や、人を引きつける魅力の無い様子を指す言葉です。
文章に関して考えてみると「誰でも書くことのできる表現」とも言えるかもしれません。
「小並感」という言葉が「小学生並みの感想」という言葉の略であると前述しましたが、とはいえ、おそらくこの言葉を使っている全ての人たちが、「小学生は劣っている」といった誤った考えを強く持っている訳ではないでしょう。
どちらかと言えば、自分は大人であるにも関わらず、小学生のような初等教育の段階にある人物でも容易に書けるであろう、勘弁で凡庸な文章になってしまっている、という比喩表現として用いているのだと考えられます。
自らの凡庸さを自虐的に伝える。
こういったメンタリティーが、「小並感」という言葉の根底にはあるのではないでしょうか。
3. 「小並感」の使い方
ここでは実際に「小並感」という言葉をどのように使うのか、いくつかの例文を挙げて見て行きましょう。
[例]:何か凄かった(小並感)。
概ねこの「小並感」という言葉は、文章中に織り交ぜて使うことは比較的稀です。
主語さえ入らないシンプルな文章の末尾に、キャプションとして入れることで、「まるで小学生の感想のような形になってしまったけれど」という、自虐的な意味合いを持たせるのが、この言葉の一般的な用法でしょう。
言いたいことがうまく伝えられない自分を自虐的に見せるためという場合もあれば、本当に何も言うことが思いつかないくらい大したことがなかった場合にも使うため、相手に情報を伝えるという観点から考えれば、この前後の文章・発言にどのような文章を持ってくるかによって、大きく印象が左右されると考えられます。
また、以下のような使い方も存在します。
[例]:もう、とにかく、なんか、いい(漂う小並感)。
「小並感」という言葉の前に「漂う」という言葉を付け加えることで、「小学生並の感想のような雰囲気が漂う、たどたどしい発言である」という、説明するのが難しい、細かいニュアンスを表現しています。
断定的に使う一般的な形と比べると、
「自分の発言からどうしてもそういう感じが漂ってしまう」というように、ユーモラスな雰囲気ふが一層増しているようにも感じられるでしょう。
これもまた、自分の発言を自虐的に見せつつ面白おかしく表現する、演出のひとつであると言えます。
[例]:小並感になってしまうけど、解る気がする。
こちらは、あえて文中に混ぜた形を提示してみました。
先に「小学生並みのあっさりした感想になってしまうかもしれないけど」と、事前に予防線を張った上で、相手にシンプルな賞賛や同意の言葉を伝えます。
自虐的な言い回しを嫌う方も多いですが、例えば、理屈を抜きにして「これは素晴らしい」と思える物事というのは存在するはずです。
その時、難しい言葉を必死に連ねて、どこか嘘っぽい言い回しになってしまうくらいなら、
「拙い言葉で申し訳ないけれど」と前置きした上で、「キミのいう事は、自分にとってはとても素晴らしいことだと感じた」という風にストレートな表現で伝えるのも、それはひとつの褒め方の形だと言えるのではないでしょうか。
[例]:何その小並感。
これも限定的な使い方をする言い回しです。
例えば親しい友人が自分の気に入ったものを説明しようとした時に、上手く言葉が出てこないのか、「とにかく凄かったんだって」と言ってきたとします。
そういった時、お笑い芸人がツッコミを入れるように、「何だよ、その小学生並みの感想は」と合いの手を入れることで、漫才のようなリズム感のある会話を演出する、というコミュニケーション方です。
とはいえ、よほど気心の知れた相手でないと不快にさせてしまうでしょうから、場面やタイミングをきちんと考慮した上で使って頂きたいと思います。
4. 「小並感」がうざいと思う心理
この「小並感」という言葉が使われている場面に際して、「ウザい」「ムカつく」といった拒否的な反応を抱く人々も一定数います。
これは一体何故なのでしょうか。
そこには、主に二つの要因が存在していると思います。
ここからは、それらの要因について少し解説してみたいと思います。
- 部外者という「疎外感」
- 「自虐」に対する反感
4-1. 部外者という「疎外感」
ひとつは、言葉の成り立ちとしての問題です。
元々スラングと呼ばれる言葉たちは、あるコミュニティーの中でのみで使われる俗語であり、一般社会で使われる言葉とは、成り立ちや使われてきた背景も大きく異なるため、「その世界でしか通用しない」独自の言葉であると言えます。
ここで少し、別の例を挙げてみましょう。
あるスポーツのファンの人たちが仲間同士でそのことを会話として楽しむ時、スポーツにおける専門用語や、コミュニティー内でのみ通じる言葉というものが存在します。
例えば野球における「ゲッツー」「マジック」「スクイズ」などの言葉は、野球について詳しくない人にとっては、何らかの意味があることまでは解っても、どういう意味を持った言葉なのかについては、正直に絵羽謎の単語という扱いでしょう。
サッカーの「オフサイド」「ボランチ」なども概ね同様の印象だと思います。
いわゆる「オタク」の人々のに関しても同様に、自分たちのコミュニティー独自の共通認識や用語などが存在しており「萌え」や「ツンデレ」といった今では聞きなれたと感じる言葉も、元は彼らのコミュニティー内での暗号めいた用語だったのだと考えられます。
大なり小なり、何かしらのコミュニティーが生まれれば、「自分たちが共通認識を持つひとつの集団である」ということを確かめるために、お互いが専門用語を用いて、関係性を確認しあうというのはよくあることです。
とはいえ、部外者である人々から見れば、理解不能の言語であり、それでお互いの親密度を確認しているという事実さえ、理解の範疇を超えています。
もちろん、そういった言葉をきちんと説明してくれる親切なファンもいます。
中にはそこから興味を持って、知識を身につけていく人々も現れるかもしれません。
しかし、多くの場合、興味を持って知識に触れようとする前に、「自分はこのコミュニティーとは違う世界の人間である」という疎外感を抱きます。
そういった疎外感が先に立ってしまうと、「自分は仲間外れだ」「解らない人にも解りやすく説明してくれればいいのに」そういった「不満」の感情がどうしても強く表に出てしまうものです。
コミュニティーを構成する人々だけで盛り上がっていることに対して、羨ましさや、行き過ぎれば嫉妬さえ感じてしまうこともあるかもしれません。
そういった「特定の言葉による結びつき」は全てが悪いわけでは勿論ありません。
ですが、人間にとって孤独や疎外感というのは、精神的なストレスにもなりうるもの。
そういった点で、いわゆる「スラング」を多用することが、コミュニケーションの阻害になってしまうケースがあるのも、事実と言えるでしょう。
4-2. 「自虐」に対する反感
何もかもに自信を持っている、という人は恐らく稀なのではないでしょうか。
人間は、自分が傷付かないために、あるいは相手を傷付けないために、本当に些細なことであっても、会話の中に複数の予防線を張るものです。
「別に悪い意味じゃなくて」、「でも、そういうところも素敵だよね」など、会話をフォローするための表現というのは、数多く存在します。
「小並感」という言葉も、言ってみればこの「予防線」の一種で、「拙い表現だと自分でも解っていますが、こんな風にしか説明できません」、「こういったシンプルな言葉で表現する以外思い浮かびませんでした」といった風に、「拙い文章」に対して、事前に「言い訳」を用意している訳です。
中にはそのような「言い訳めいた表現」を嫌う人もいるかもしれません。
「わざわざそんな注釈つけるくらいだったら、書かなくても良いだろう」
「そんな注釈つけないで、ちゃんと説明しろ」と言った風に、否定的な意見を取り上げれば、おそらくキリが無いはずです。
そういった些細な反感が「うざい」という感情のスタート地点になっている事は、それほど想像に難くないことでしょう。
ですが、元々「小並感」という言葉が、概ね自虐的な意味合いであることは、前述した各章の内容でも繰り返しご説明した通りです。
「自虐」というのは、本来ユーモラスさを演出する手法でもあります。
自虐的にならざるを得ないほど言葉が浮かんでこない状況というのは、普段の冷静な状態、きちんと会話ができている状態と比べてみれば、例えば興奮しているのであれ、思考が停止してしまって適切な言葉が出てこないのであれ、非常に極端で、滑稽な状態であると言うことができます。
多くの人がこの「小並感」という言葉を使う場合、そういった「うまく言えないことの可笑しさ」を演出することで、たまたま自分の発言を読んだ人に、少しでも笑ってもらえたらという意図が
少なからず存在しているのではないでしょうか。
どんなことにも否定的な意見は出るもので、そのような意見を持つ事も勿論自由です。
ですが、その言葉が悪意だけで書かれたものではないのではないか、そんな視点を持つことで、他人の発言に寛容になれるのも事実。
「そういうものか」と受け流してみれば、何事も面白く感じられるかもしれません。
まとめ
今回は「小並感」というネットスラングをテーマとして取り上げました。
インターネットが爆発的に普及してから、こういったスラングは今も日々生まれ続けています。
古くから伝わる日本語を大事にする気持ちが強いために、「昨今の言葉は荒れている」、「このままでは日本語がだめになってしまう」
そういった発言をされる方も、世の中には多いと感じます。
ですが、私たちが用いている現代の日本語も、過去の日本語から使わなくなった言葉を省き、必要な言葉を継ぎ足しながら、少しずつ変化し、時代に合わせて進化してきた産物だと言えます。
ネットスラングのような言葉も、特定の状況下で必要とされた結果生まれたものであったり、あるいは偶然の結果生まれ、その言葉に魅力があったからこそ定着したものです。
何の理由も無く、ましてや日本語を崩壊させるために生み出された言葉では決してありません。
このまま長い時間を生き延びていくか、あるいは途中で廃れ消えてしまうかは解りませんが、必要とされる人に必要な形で使われていくのであれば、それも立派な「言葉」と言えるのではないでしょうか。
その人々が生み出す新しい「言葉」をただ否定するのではなく、「ああ、そういう言葉が生まれたのか。
面白いじゃないか」と考える。
この文章がそのような考え方の一助になれたのでしたら、幸いに存じます。